2017年09月23日

藤川球児の笑顔

今週の火曜日、祝日明けの出勤初日、
あまりにも気持ちが下がってしまったので、気合いを入れるべく出勤ラン。
しかし、走っても走っても、枯れた井戸からは、なかなか水が上がらず。
地面から染み出してくるものをハンカチで吸い取るようにして1日を過ごした。

翌日は、前日よりは脳内のドパミンも豊富だったのだろうか。
同じく出勤ランをしたが、気持ち良く20キロ近く走ることができた。

閑話休題。
いずれの日も、隅田川テラス、桜橋のほんの少し南側、長命寺桜餅の前あたりに、
白黒ブチの猫が寝そべっていた。
その30センチもない鼻先を足音をたてて通ったのだか、
かの猫殿は全く無反応。
大した腹の太さだと心から感心した。

今日は土曜日、休日。
昼前に走りに出たのだが、
兎に角、面倒臭い、という気持ちが心を支配し、
メンドクセェ! と叫びながら土手を走った。

そんな今日、神宮球場でのヤクルト・阪神戦は、8対1と阪神リードの9回裏、
藤川球児がマウンドに上がった。

最後の打者を見逃し三振に打ち取る。
ゲームセット!

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2017年09月13日

羨ましくない

 河合隼雄さんの『こころの処方箋』(新潮文庫,1998年)をパラパラとめくっていたら,「羨ましかったら 何かやってみる」(p198-201)という項が気になった.要約・引用するとこんな内容だ.

 羨ましい,というのはネガティブに思われる感情だけれど,だからといって抑え込もうとするのではなく,それと認めて思いを巡らせてみると,案外見えてくることもある.
 羨ましいというのは,自分が持っていないものを他人が持っているところに生じる感情だけれども,そのようなときに「必ず」生じるとは限らない.そこに何か「プラスされるX」が無いと生じないものである.
 例えば,河合さんの下にカウンセリングを受けに来た人で,スポーツのできる弟に羨ましさを感じるという人がいた.その場合,特に弟に対してその気持ちを持つ,という点に「X」が潜んでいるのだと河合さんは分析する.実際,話が進んでいくと,その人の弟はスポーツマンであるが故に有利な就職ができたが,そのような才もない自分は,縁故も得られずに不利な職場に就職した.だから「自分は現在の職場でやり抜かねばならないことがあるのに,それが嫌でやっていない」という風なことが出てくる.このように,羨ましいという感情に伴って意識されてくる部分は,特に「開発を待っているところとして,うずいていることを意味しているのだ.」
 だったらそれをやれば良いではないか.それはなかなか困難なことではあろうが,愚痴を言ったり,他人の足を引っ張ったりしているよりはまだマシではないか.
 
 なるほど,と我が身を振り返ってみて少し不思議な気持ちに襲われた.今の自分にとって何が,誰が「羨ましい」のだろう・・・と考えてみると,自分の中に「羨ましい」という感情が見当たらないように思われるのだ.もちろん,お金があればすぐに会社を辞められるだろうし,マセラティシャマルを買うこともできるだろう.その意味で,金持ちは羨ましいけれど,資産家はそれを維持する苦労があるだろうし,宝くじに当ったらと考えても「宝くじに当った人の末路」という本が出ているくらいだから結局はロクなことが無いだろうし・・・そもそも宝くじなんて買おうとも思わないし・・・

 得度したわけでも解脱したわけでもないので,他人を羨む気持ちもきっと自分の中に渦巻いているはずなのだが,なんだっけ? 「羨ましい」って.

 そういえば先日,文脈は忘れたけれど,中学生になったばかりの生意気盛りの娘に「パパの人生って余生みたいなもんだよね.」と言われたことを思い出す.余生を送る人間が他人を羨んだって仕方ないものね.「羨ましい」という感情も,その状況を変えたいという欲求と変えようとするパワーがあってこそ生じるものなのかもしれない.
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2017年09月02日

大飯の海

ふとしたきっかけから、2泊3日で、福井県大飯町の、ホテルうみんぴあ大飯に滞在。
気のおけない友人と三方の天然うなぎを喫し、嶺南の山間でゴルフを楽しむ、日常を離れた贅沢なときを過ごすことができた。

朝は2日ともホテルを起点にジョギング。

初日は大飯原発へと繋がる青戸橋を渡り、時間の制約から原発手前4キロほどの地点で折り返しての14キロ。
穏やかな美しい若狭の海を横目に愛でつつ、山間を貫くトンネルを2つくぐり、大飯原発方面へと出勤する人びととすれ違いながらのジョグ。

朝のテレビニュースでも、大飯原発再稼働関連の話題が取り上げられていたが、この地では嫌でも原発の存在を意識させられる。

今朝も橋へと向かったのだが、風が強く、50センチほどの幅しかない歩道を走ることには、車道によろめくリスクを感じたので、やむなくホテルの周囲に戻った。

海岸沿いには板敷きのゆったりとした遊歩道が設けられていて、気持ち良く走ることができる…

のだが、いかんせん山と海の境目に忽然と埋め立てにより姿を現したこの「うみんぴあ大飯」という総合レジャー空間は、たかだか500m四方しかない。

目の前の国道は危なくて走れないので、やむなくこの閉ざされた空気の中をグルグルと回ることに。

まるでトレッドミルのようじゃないか。

どこかにたどり着くという小さな希望もなく、唯ジムの淀んだ空気の中でゴムの臭いを嗅ぎながらローラーを踏む。
トレッドミルというやつは、どうにも苦手である。

今日の小浜湾も、少し波頭が立っているとはいえ美しいエメラルドグリーン。
海風を浴びながら反発力のある遊歩道の板敷を気持ち良く蹴る…

しかし、ほんの数分で行き止まりにぶつかり、折り返す、また行き止まり、また折り返し…

終わらない石運びをさせられたという、ギリシア神話のシジュフォスほどではないにせよ、これは一種の苦行である。

原発が作られる前、この海は地元で魚を捕ったり、真珠を育てたりする人達だけが静かにその営みを繰り返す場所だったはずである。

原発が出来てから、造られた橋を渡って、毎日毎日、その仕事のために人々が行き交う海になった。

そして、よそ者の自分も、人口の海辺をひたすら行き来して、カロリーの消費にこれ勤めている。

どの行為にも、結局は意味なんてないのかも知れないけれど、人間本来の自然な営みと、人間の愚かしさが作り上げた虚構の中での空しい日々の繰り返しとの違いが、そこにはあるように思えるのである。

ホテルうみんぴあ大飯の窓辺から、朝焼けの小浜湾
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posted by いつかはシャマル at 15:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする